八坂神社御祭神
建速素戔嗚尊(たけはやすさのうのみこと)
「スサ」は「荒ぶる」「進む」などの意味があり、荒々しさと勢いの象徴とされています。ただし、暴れん坊なだけでなく、国造りに関わる神としての側面や、子孫に大国主命(オオクニヌシノミコト)を持つなど、日本の神話体系の中でも非常に重要な存在です。
- 別称、牛頭天王
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災厄を祓い、五穀豊穣や疫病除けの神として信仰されてきました
🧧 ご利益と信仰
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厄除け・災難除け
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縁結び・家内安全
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五穀豊穣・商売繁盛
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病気平癒・水難火難除け
🐉 主な神話と伝説
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ヤマタノオロチ退治:出雲の地で八つの頭を持つ大蛇「ヤマタノオロチ」を退治し、櫛名田比売(クシナダヒメ)を救って妻に迎えます。このとき大蛇の尾から出てきた剣が「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」で、三種の神器の一つになります。
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アマテラスとの誓約(うけい):高天原での乱暴な振る舞いにより、姉アマテラスが天岩戸に隠れるきっかけを作った神でもあります。
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日本最古の和歌を詠んだとされる文化的な一面もあります。
八坂神社御由緒
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✨ ご神体の伝説と地域に根ざした信仰
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当社には、古より語り継がれる神秘的な伝承が残されています。往古、一体の神像が川に流されたものの、笠間の川辺に流れ着いた際、突如としてまばゆい光を放ったといいます。人々はこの現象に深い畏敬の念を抱き、その地に祠を建立してお祀りしたことが、当社のご神体の起源とされています。この伝承は、神々が自らの意思でこの地を選ばれた霊跡として、現在も多くの崇敬を集めております。
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また、かつては地域に根づいた敬神の風習として、**「当家(とうや)」**と呼ばれる習わしが行われていました。これは、地域の家々が順番に神様を迎え入れ、家内安全や繁栄を願って祀るというもので、神々と人々が共に暮らすような、親密で温かな信仰の形でした。神様の御神徳を各家に分かち与えていただくこの風習は、共同体としての絆や感謝の心を育むものでもありました。
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このように当社では、神の霊験と人々の暮らしが深く交わる信仰の姿が、時代を超えて受け継がれてきました。静寂に包まれた社域の中にあって、こうした伝承や風習が今も息づいています。
三所神社御祭神
🌟 ご祭神の御神徳について
当社では、以下の御祭神をお祀りしております。
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大國主大神(おおくにぬしのおおかみ・大國さま)
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事代主大神(ことしろぬしのおおかみ・ゑびすさま)
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美穂津姫大神(みほつひめのおおかみ)
古代日本の黎明期より、「国造り・里造り・家造り」を司られた大國主大神は、民の暮らしを豊かに導く大神様として広く信仰されてきました。衣・食・住の安定をはじめ、医薬の術を授け、産業の礎を築き、縁結びや方位除け、商売繁盛、厄除開運など人生のあらゆる幸福を授ける福徳の神として崇敬されています。
また、事代主大神は、豊漁・商売繁盛・福徳の象徴として親しまれる**「ゑびすさま」**であり、恵みと和をもたらす神として厚く信仰されています。
さらに、諏訪信仰で名高い武神・建御名方大神や、大國主大神の妃神である美穂津姫大神を合祀しており、家内安全・良縁・地域繁栄を見守る神々の御神徳が静かに息づいています。
この三柱の神様より三所神社の名前の由来となっております。
三所神社御由緒
📜 由緒と神々の御鎮座
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創建:人皇第56代 清和天皇の御代、貞観年中に三穂津姫大神を祀る小社が創建されました。
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鎌倉時代・建保3年(1210年):笠間初代城主・藤原時朝公により、宇都宮二荒山神社から大國主大神を迎え、本殿三社を建立されました。
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中央に大國主大神、左に事代主大神、右に三穂津姫大神を祀り、「三所大明神」と総称されました。
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笠間城主や領民に深く信仰され、総鎮守の杜として繁栄を支えてきました。
🌀 合祀と修復の歴史
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天正2年(1574年):石井村より「笠間八坂大神(素戔嗚命)」を合祀されました。
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足利・江戸時代を通じて、歴代笠間城主による社殿の修復や再建されました。
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**文政2年(1819年)**の火災を経て、文政5年に再建され、一社殿に三神を祀る形式になりました。
🌿 境内と信仰
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老樹うっそうと茂る境内は神秘的な雰囲気に包まれ、神々の霊験を今に伝えます。
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かつては一の鳥居から本殿まで約4kmの表参道を有し、地名にその名残をとどめます。
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現在は、地域を守る産土神として、大國主大神・事代主神が広く信仰されています。