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文明8年8月(足利時代)笠間城主 藤原綱久公により社殿大修復。

元禄10年10月(江戸時代)笠間城主 本庄宗資公により社殿修復云々。

文政2年5月(江戸時代)町屋よりの火災で社殿焼失し、同5年10月城主 牧野越中守貞幹公により社殿を再建せられ、この時社殿一社として内陣に祀り「三所大明神」と改称されました。

創立当時より文政年間まで一の鳥居は、現在の国道50号線の箱田赤坂下まで4,000メートルが当社の表参道であり、地名が元〆となって現存しています。これより明治以降は地域を守る神、つまり産土神としてご利益が多い大國主大神・事代主神として鎮座されました。

三所神社の成り立ち

大國主大神 (大國さま) 事代主大神(ゑびすさま)

合祀神 建御名方大神・美穂津姫大神

日本建国の昔より国造り・里造り・家造りの大國様で日本人の生活向上を考慮し医薬の術を教え、産業開発を計り衣・食・住の安定を計り、商売・開運厄除・方位除け・縁結び等、人生の幸福を司られた福徳宏丈・慈愛深厚の大神様であります。

御祭神 

御由緒

市内東隅に10,000平方メートルの神域老樹鬱蒼として神秘に包まれ鎮座せる三所大明神は笠間年代実録、笠間城記、本社由緒記等に依れば平安時代(1,180年前)人皇56代清和天皇御代貞観年中 三穂津姫神を奉祀し小社を祀る。其の後、鎌倉時代健保3年(1,210年)10月20甲子(きのね)に笠間初代城主 藤原時朝公が宇都宮二荒山大明神の主祭神 大國主大神を遷し、本殿三社を建立して御鎮まりになり、本殿中央に大國主大神、左脇宮に事代主大神、右脇宮に三穂津姫大神を祀り三社大明神と総称し、笠間城主領民の繁栄の総鎮守の杜として格式高き名社であります。天正2年には常陸国 三大天王社 笠間八坂大神を石井村より遷座し合祀されて居ります。

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